掲載誌:ESPES
ライセンス: CC BY 対象: 公開論文 確認元: OpenAlex
食べることを美学の問いとして考える
近年の欧米の哲学では、視覚や聴覚に比べて「低い感覚」とされてきた味覚や嗅覚を、美学の対象として見直す動きが広がっています。背景には、芸術作品だけでなく日常生活の中にも美的な経験があるという考え方があります。料理と食事を哲学の主題とするこの流れは「料理的転回」と呼ばれることもあります。また、食べることを、美的な楽しみと倫理・社会の問題が交わる営みとして捉える「ガストロソフィー(食の哲学)」という立場も現れています。
この論文の著者は、こうした流れの中でも、味覚を理論として論じることより、実際にどう育て、どう実践するかに注目しています。手がかりにするのは「実践的美学」という考え方で、とくに二つの方向が取り上げられます。一つは感覚や趣味を育てる「美的教育」です。もう一つは「ソマエステティクス(身体美学)」で、身体を通じた経験を重視し、身体をよりよくすることを美学の課題とします。
研究の目的は二つあります。時代も文化も異なる三つの料理文献が、味覚の教育と身体の改善という要素をどのように実現しているかを明らかにすること。そして、それらが現代の食をめぐる議論をどのように先取りしていたかを示すことです。
三つの料理文献をどう読んだか
分析の対象は次の三つです。19世紀初頭のフランスで刊行されたグリモ・ド・ラ・レニエールの『美食家年鑑』、1822年に出版されたドイツの美術史家フォン・ルーモールの『料理術の精神』、そして1939年にソ連で初版が出たレシピ集『美味しく健康的な食べ物の本』です。著者はそれぞれを、食べる主体の理想像を形づくろうとする企てとして読み解いています。
『美食家年鑑』について著者が注目する点は三つあります。第一に、月ごとに季節に合った食材を勧める構成です。第二に、美食の楽しみを正当なものとして認めながら、大食とは区別する「啓蒙された味覚」を持つ美食家の姿です。第三に、客をもてなす主人のための手引きです。この手引きでは、料理の質だけでなく、席順や招待の作法、気の弱い客への配慮といった食卓の雰囲気づくりが、完全な美的経験に欠かせないとされます。著者はこれを、現代の「雰囲気の美学」と重なるものと見ています。
『料理術の精神』について、著者は、西洋哲学の文脈で食を本格的な美学の対象として位置づけた最初の試みだと述べています。ルーモールは料理を、健康と生命感を保つための芸術と捉えました。そのうえで、火・塩・水を基本要素として、栄養価を高める調理の心得を示しています。一方で、見た目の飾りはむしろ避けるべきだとしました。さらに、料理人には自然科学や歴史、数学の素養を求め、親には子どもに節度ある食べ方を身につけさせるよう説いています。著者は、美と倫理が結びついたこの構想を、現代のガストロソフィーの先駆けとして評価しています。
ソ連のレシピ集は、味覚の教育が国家政策の一部となった例として扱われています。この本は、食品産業を率いたミコヤンの主導で作られました。レシピの解説や衛生の基準、盛り付けの助言を通じて、合理的な栄養観と食の楽しみを併せ持つ「新しいソビエト人」を形づくろうとしたものです。著者によれば、当時の構想では、味覚は自然に備わったものではなく、制度を通じて作り変えられるものと見なされていました。著者はほかにも、次のような点を検討しています。中央アジアの食材や缶詰・加工食品を導入するための解説。家事の時間を減らし、女性がその時間を国のための労働に充てられるようにするという意図。そして、題名に「美味しい」を入れて食の楽しみを重視した経緯です。
主な報告
著者は、三つの文献に共通する特徴として、食に関する美的な実践の基準を示し、その必要性を理屈で裏づけている点を挙げています。いずれの文献にも美的教育と身体の改善という二つの方向が見られ、美学と倫理、さらに政治が交わる場面が浮かび上がると報告しています。
具体的には、『美食家年鑑』とルーモールの著作は、現代のガストロソフィーがいう「よく生きる技法」とつながるとされます。どちらも、質の良い食事で身体を大切にしながら、節度と知識に支えられた食の楽しみを育てようとしているからです。一方、ソ連のレシピ集では、身体を通じた自己改善という発想がいっそう強く現れ、強い世代を育てるという国家の目標と結びついていたことが示されています。
ただし著者は、このレシピ集が現実の食生活というより、理想化された規範だったとも指摘しています。根拠として挙げられているのは、時間の節約という本来の目的に合わないレシピや盛り付けの助言があったことです。著者は、主婦たちがそうした指示に従っていたわけではないと判断しています。また、多くの食材が実際に手に入ったのかどうかについても疑問を示しています。さらに、刊行年ごとに政治・経済状況に応じて品目が調整されたことにも触れています。それでも著者は、ソビエト料理という現象を生み出した点で、この企ては実現したと見ることができると述べています。
この研究が示すこと
この論文は、レシピ集や美食の手引きといった身近な文献が「実践の美学」の資料になることを示しています。これらの文献は、味覚をどう育て、どのような身体と人間像をめざすかを語っているからです。何をどう食べ、どう楽しむかという日々の選択が、時代ごとの倫理観や政治的な理想と深く結びついてきたことを、三つの文献を通して具体的にたどった研究だといえます。
原著論文の著者・所属:Kravchenko, Elizaveta
※本記事は原著論文をもとに、日本語で要約・説明を加えた研究紹介です。 出典(原著論文):Kravchenko, Elizaveta. The Practice of Taste: The Aesthetics of Food in 19th- and 20th-Century Culinary Writings. ESPES 2026-07-31. DOI: 10.5281/zenodo.21724591. 原著ライセンス:CC BY.