著者の所属・活動拠点の国は、トルコです。
掲載誌:Frontiers in Nutrition
ライセンス: CC BY 対象: 公開論文 確認元: OpenAlex
追放の歴史と食文化を結びつける問い
アヒスカ・トルコ人は、南コーカサスと東アナトリアの境にあたるアヒスカ地方に暮らしてきた人々です。第二次世界大戦中の1944年11月14日、ソ連の強制移住政策によって故郷を追われ、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスなど中央アジアへ移されました。論文によると、追放された人数はおよそ9万〜12万人とされています。その後、一部の人々はトルコへ移り住み、東部ビトリス県のアフラト地区にも定住しました。アフラトはヴァン湖のほとりにある地区で、タンドール(土窯)での調理、保存食、穀物料理、畜産物を特徴とする独自の食文化をもっています。
著者らは、これまでのアヒスカ追放をめぐる研究が主に歴史・政治・社会面に向けられ、食文化は民俗の一部として扱われるにとどまってきたと指摘します。料理は単なる栄養源ではなく、集団の記憶やアイデンティティを世代を超えて伝える手段にもなります。それにもかかわらず、移住先の地元の食文化とどのように関わり合ってきたかは、十分に調べられていませんでした。そこで研究チームは、アフラトに暮らすアヒスカ・トルコ人を対象に、追放の経験が料理の記憶や食の伝統の継承にどう影響したか、どの料理や習慣が受け継がれ、あるいは変わったか、そしてアフラトの地元料理との交流がどのような適応や融合を生んだかを問いました。
18人への聞き取りから読み解く
研究は、数値を測るのではなく人々の体験や語りの意味を探る「質的研究」として行われました。アヒスカ出身でアフラトに住み、伝統料理を直接知っている人を、地域のつながりや紹介を通じて選び、2025年12月に18人へ対面で聞き取りを行いました。1人あたりの面接時間は約40分です。参加者は女性12人、男性6人で、12人は86〜90歳でした。著者らは、多くが子ども時代に追放を経験した世代、あるいはその直後を目撃した最初の世代にあたると説明しています。
質問は「移住」「食べ物と飲み物」「調理の実践」「行事」「伝統」の五つのテーマに沿って行われました。録音した語りを文字に起こし、意味のある言葉や文に分類用の見出し(コード)を付けて似たものをまとめていく「質的内容分析」で整理しています。2人の研究者が別々に分類を行い、結果を突き合わせて合意を図るなど、解釈の偏りを減らす工夫もとられました。
語りに残る追放の記憶と、受け継がれる料理
移住のテーマでは、参加者の多くが「自分たちで選んだのではない」と語り始め、閉ざされた貨車での45〜50日に及ぶ旅、飢えや病、家畜市場や納屋に住まわされた経験などが今も鮮明に記憶されていることが示されました。同時に、料理は失われた故郷とのつながりを保つものとして語られました。「どこへ行っても、ケテとヒンカルを作った。それが故郷を思い出させてくれた」「故郷は失ったが、料理は決して忘れなかった」といった言葉が紹介されています。
食べ物については、言及の多かった上位8品のうち6品が生地をもとにした料理でした。ヒンカル(10人が言及)、サムサ(9人)、ケテ(8人)、シノル(8人)、ビシ(7人)、ハチャプル/キキル(6人)です。料理名にはコーカサス系と黒海・アナトリア系の伝統が混ざり合っていると著者らは述べています。飲み物ではホシャフが特に特徴的なものとして挙げられ、著者らはこれを、冬に備えて果物を干す伝統の強さを示すものと捉えています。
調理法では、ほぼすべての参加者が蒸す調理を挙げ、著者らはこれをヒンカルの文化が深く根づいていることの表れとみています。ヒンカルを蒸すための専用の鍋も、ほとんどの参加者が言及しており、著者らはこれを単なる道具ではなくアヒスカの台所を象徴する存在と位置づけています。「ヒンカル鍋がなければ、アヒスカの料理という感じがしない」という声もありました。厳しい冬や度重なる移住に備え、乾燥や炒る処理、木製の容器や素焼きの壺を使った保存の工夫も語られています。
行事の場面では、婚礼にはウズベク風ピラフとヒンカルが欠かせず、弔事では全員がハルヴァ(菓子)を挙げました。喪中の家では3日間調理をせず、近所の人が食事を届けるという習慣も、分かち合いの強さを示すものとして紹介されています。一方で、イラクサのスープ(チンチャル)は多くの参加者が「もう作られない、あるいは非常に珍しくなった料理」として挙げ、手間のかかるケテや、つぶしたトウモロコシで作るラズトも作られる機会が減っていると報告されました。食卓では、料理を順番に出すのではなく、甘いものから主菜まで一度に並べるのが伝統とされています。
料理は記憶を運び、新しい土地で生き続ける
著者らは、アヒスカ・トルコ人にとって料理が、追放の記憶と集団としてのアイデンティティを世代を超えて保ち続けるための文化的な資源になっていると結論づけています。また、アヒスカの料理はアフラトの地元の食文化に取って代わったのでも、単に昔のまま固定されて残ったのでもなく、地元の食文化と並び立ちながら、日々の交流の中で少しずつ受け入れられ、変化してきたと捉えています。追放から長い年月を経た今も、ヒンカルを囲む食卓には、失われた故郷の記憶と新しい土地での暮らしが重なり合っていることを、この研究は人々の語りを通して示しています。
原著論文の著者・所属:Neslihan Serçeoğlu(Department of Gastronomy and Culinary Arts, Faculty of Tourism, Atatürk University)、Erkan Denk(Department of Tourism Management, Kanik School of Applied Sciences, Bitlis Eren University)、Yener Oğan(Department of Gastronomy and Culinary Arts, Kaman School of Applied Sciences, Kirsehir Ahi Evran University)、Umut Güleryüz(Department of Tourism Management, Kanik School of Applied Sciences, Bitlis Eren University)
※本記事は原著論文をもとに、日本語で要約・説明を加えた研究紹介です。 出典(原著論文):Neslihan Serçeoğlu, Erkan Denk, Yener Oğan, et al. Reflections of the 1944 Ahiska exile on Ahlat cuisine. Frontiers in Nutrition 2026-08-14. DOI: 10.3389/fnut.2026.1903820. 原著ライセンス:CC BY.