魚の切り身は成長するにつれて筋肉が大きくなるだけでなく、新しい筋線維も一生を通じて作られ続けるという、哺乳類とは異なる成長様式を持っています。この仕組みを支えているのが、筋肉のもとになる前駆細胞(筋前駆細胞)です。しかし大西洋サケ(Salmo salar)のような養殖上重要な魚種では、長期間安定して培養できる筋前駆細胞株がこれまで乏しく、筋肉の発生メカニズムの研究や、細胞を培養して食用の魚肉を作る「セルラー・アクアカルチャー(細胞培養水産養殖)」の研究開発の妨げになっていました。今回、英国エディンバラのRoslin Technologies社の研究チームが、大西洋サケの胚(受精卵)から新しい筋前駆細胞株を樹立し、その性質を詳しく調べた研究を報告しました。
発生段階が進んだ胚からの細胞株「SsEC」
研究チームは、ノルウェーのBenchmark Genetics社から入手した大西洋サケの受精卵を約4.5度で管理し、目の形成が進んだ「眼点期」(受精から積算温度で約370度日に相当する段階)の胚を使って細胞を分離しました。得られた細胞は培養容器の表面をコーティングする材料(細胞外マトリックス)によって、くっつき方や増え方が大きく異なることが分かりました。ゼラチンでコーティングした場合は一時的に付着してもほとんど増殖せず、約30日で培養が失敗しました。ラミニン511でコーティングすると初期の付着や増殖は改善しましたが、やはり30日ほどで増殖が止まり、継代(細胞をはがして別の容器に移す操作)後に再び付着できなくなりました。これに対し、ビトロネクチンでコーティングした場合のみ、60日を超えて安定した増殖と継代培養が可能になり、最終的に30回を超える継代を経ても筋前駆細胞としての性質を保ったまま増やし続けることに成功したといいます。この細胞株は「SsEC」と名付けられました。
既存のサケ細胞株との比較で分かった特徴
研究チームは、腎臓由来ですでによく使われている大西洋サケの細胞株(ASK細胞)とSsECを比較しました。形の面では、SsECは細長い紡錘形をしており、いかにも前駆細胞らしい見た目である一方、ASK細胞は平たく上皮細胞に似た形をしていました。増殖速度を比べると、SsECの倍加時間(細胞数が2倍になるのにかかる時間)は約54時間で、ASK細胞の約120時間に比べてはるかに速いことが示されました。遺伝子発現を網羅的に調べる解析(RNAシーケンシング)でも、SsECでは筋肉の発生やサルコメア(筋線維の収縮構造)の形成、細胞骨格に関わる遺伝子群がまとまって高く発現しており、筋肉のもとになる分子プログラムが働いていることが確認されました。一方でASK細胞では血管内皮や腎臓に関連する遺伝子(vwf、pecam1、kdrなど)が高く発現しており、両者の性質がはっきり異なっていました。また、8回目の継代と32回目の継代を比べても、SsECの遺伝子発現パターンは大きく変化しておらず、筋肉のもとになる細胞としての性質が長期培養でも保たれていたことも示されています。個別の遺伝子を調べるPCR検査でも、筋肉の初期マーカーであるmyf5の発現が継代を重ねても維持・上昇していた一方、より成熟した筋肉のマーカー(acta1、tpm1、myl1など)は継代が進むにつれてむしろ低下しており、培養中に勝手に分化が進んでしまうことが少ないという特徴も見られました。
筋肉細胞への分化誘導と、発生段階による違い
研究チームは、SsECを実際に筋肉細胞(筋管)へと分化させる実験も行いました。まずWNTシグナルを活性化する物質(CHIR99021)とTGF-βやBMPのシグナルを抑える物質(SB431542、DMH1)を使って体節前中胚葉(筋肉のもとになる胚の組織)に似た状態へ誘導し、その後、インスリン様成長因子(IGF-1)や肝細胞増殖因子(HGF)、サケ由来の線維芽細胞増殖因子(bFGF)を含む培地に切り替えるという二段階の手順が試されました。血清を含まない培地(条件1)とサケ胚由来の培地に低濃度の血清を加えた培地(条件2)の2種類が比較され、いずれの条件でも、分化開始から17日後には筋肉の分化に関わる遺伝子(myod1、myog)が未分化のSsECやASK細胞に比べて大きく増加していました。ただし、筋線維の構造タンパク質であるトロポニン(Tnnt3a)の発現は、血清を含まない条件1のほうが条件2よりも高くなっており、培地の違いが分化の進み方に影響することも示されました。免疫染色によって、分化させた細胞では筋肉に特徴的なタンパク質(サルコメアα-アクチニンとミオシン重鎖)が検出され、複数の核を持つ筋管(多核の細長い筋肉細胞)が形成されていることも確認されました。さらに研究チームは、より発生初期の「胞胚期」(受精後約40〜48度日)の胚からも細胞を採取しており、こちらはラミニンをコーティングした条件でのみ、密集したコロニー状の集団を形成し、胚性幹細胞に似た性質を示したことも報告されています。同じ胚由来の細胞でも、採取する発生段階によって必要な培養条件がまったく異なるという点は、この研究のもう一つの発見といえます。
この研究の位置づけと今後の課題
この研究は、大西洋サケの胚から長期間安定して増やせる筋前駆細胞株を新たに作り出し、その増殖特性や遺伝子発現、筋肉への分化能力を詳しく調べたものです。研究チームは、こうした細胞株が魚の筋肉発生の仕組みを調べる実験モデルとしてだけでなく、細胞培養によって水産物を作る研究の土台としても役立つ可能性があるとしています。ただし、これは一つの細胞株を対象とした基礎的な特性解析の研究であり、食用としての実用化や量産の可能性を直接検証したものではありません。また、比較対象としたASK細胞は腎臓由来の非筋肉系細胞であり、他の筋肉由来細胞株との比較は行われていません。分化誘導の実験も培養容器内でのものであり、実際の魚の体内での筋肉形成を完全に再現しているわけではない点にも注意が必要です。
大西洋サケのように養殖業で重要な魚種において、こうした基礎的な細胞培養技術の蓄積が進むことは、将来的な研究の選択肢を広げるものといえるでしょう。とはいえ本研究はあくまで一つの細胞株の樹立と性質解析にとどまり、結論が確定したものではない点を踏まえて読む必要があります。
※本記事は原著論文の翻訳ではなく、研究内容を独自に解説したものです。参考文献:Kyle Naylor, Sophia Webb, Deepika Rajesh, et al. Derivation and characterization of an embryonic‑derived muscle progenitor cell line from Atlantic salmon (Salmo salar). インビトロ・セルラー・アンド・デベロップメンタル・バイオロジー・アニマル (2026). DOI: 10.1007/s11626-026-01221-8. 原著ライセンス: cc-by.