著者の所属・活動拠点の国は、イタリアです。
掲載誌:Journal of xenobiotics
ライセンス: CC BY 対象: 公開論文 確認元: Europe PMC
総説が取り上げた問い
乳がんは、世界の女性で最も多く診断されるがんで、女性のがん死亡の最大の原因でもあります。著者らによると、新たに診断される人は年に230万人を超え、その数は増え続けています。乳がんの発症には、遺伝、ホルモン、出産歴、生活習慣など多くの要因が関わります。BRCA1やBRCA2といった遺伝子の変異のように、生まれつきの遺伝的要因で説明できるのは全体の5〜10%程度とされています。
この総説で著者らは、環境要因の一つとして農薬に注目しました。農薬が乳がんの発生や進行にどう関わりうるのかについて、細胞や動物を使った実験で示された分子の仕組みと、人の集団を調べた疫学研究の知見をまとめています。あわせて、両者をどう解釈すべきか、どこに課題があるのかも整理しています。
ホルモンをかく乱する化学物質としての農薬
著者らが中心に据えたのは、農薬の一部が「内分泌かく乱化学物質」として働く可能性です。内分泌かく乱化学物質とは、体内のホルモンの働きを乱す物質を指します。乳腺は、エストロゲン、プロゲステロン、プロラクチンといったホルモンの精密な調節を受けて発達し、周期的に作り替えられ、授乳を担う器官です。そのため、こうした乱れの影響を受けやすいと著者らは説明しています。
総説では、農薬が関わりうる経路として次のようなものが紹介されています。一つは、一部の除草剤や殺菌剤が、男性ホルモンを女性ホルモンに変える酵素「アロマターゼ」の働きを高める経路です。これにより、乳房の局所でエストロゲンが過剰になる可能性があります。もう一つは、遺伝子の配列そのものは変えずに、遺伝子のスイッチの入り方を変える「エピジェネティック」な変化を引き起こす経路です。
取り上げられた農薬は、用途によって三つに分類されています。除草剤(グリホサート、アトラジンなど)、殺虫剤(クロルピリホス、古くから使われてきたDDTとその分解物DDEなど)、殺菌剤(フェンヘキサミド、マンコゼブなど)です。グリホサートについては、国際がん研究機関(IARC)が2015年に「おそらく人に対して発がん性がある」(グループ2A)に分類したことが紹介されています。ただし、人での疫学的証拠は限られており、主に非ホジキンリンパ腫に関するものだと記されています。
がんの進行に関わる仕組みも扱われています。がん細胞は「上皮間葉転換(EMT)」と呼ばれる変化を起こすと、周囲の細胞との結合をゆるめ、動き回る性質を得ます。これは転移の入口となる現象です。総説によると、人の体内で検出される水準に相当するナノモーラー(1〜100 nM)の濃度で、農薬への曝露がホルモン受容体陽性やトリプルネガティブといった乳がん細胞のモデルでEMTを強く活性化したという報告があります。細胞の周りの組織を分解する酵素(MMP-2、MMP-9)が増えることも挙げられています。
食品成分の働きと、実験結果を人に当てはめる際の注意
総説は、レスベラトロール、緑茶に含まれるEGCG、クルクミン、アブラナ科野菜に由来するスルフォラファンなど、植物由来の成分についても紹介しています。これらの成分は、実験の場で、酸化ストレスを抑えたり、解毒に関わる酵素を増やしたりする働きが調べられてきました。
ただし著者らは、これらがあくまで実験室での前臨床段階の知見であると強調しています。人の体では、こうした成分は吸収されにくく、肝臓ですぐに代謝されるため、乳房の組織に届く量が大きく限られます。そのため著者らは、現時点の前臨床の証拠を「食事やサプリメントで農薬による乳がんを防いだり打ち消したりできる」という臨床的な証拠と受け取ってはならないと明記しています。食事による対策は臨床的な予防の代わりにはならない、とも述べています。
そのうえで著者らは、集団全体でのリスクを下げるには公衆衛生と規制の側からの対策が必要だと論じています。現在の規制は農薬を一つずつ単独の成分として評価しています。しかし実際には、人は複数の化学物質の残留物に同時にさらされています。著者らは、こうした混合物が足し合わさって生じる影響(「カクテル効果」)を考慮した安全基準への転換を求めています。
疫学研究の結果がそろわない理由と、総説の結論
著者らは、実験で示される分子の仕組みと、人の集団で観察される統計的な関連とを区別することが重要だと述べています。農薬への曝露と乳がんの発生を調べた疫学研究の結果は一貫していません。著者らはこれを、生物学的な影響がないことを必ずしも意味するものではないと説明しています。むしろ、調べ方の難しさから生じている面があるとしています。
その難しさとして、次のような点が挙げられています。まず、人は単一の成分ではなく混合物や市販製剤にさらされています。次に、質問票による調査では記憶違いが起こりやすく、一度だけの採血や採尿では長年の曝露をとらえられません。さらに、胎児期、思春期、妊娠・授乳期のように乳腺が活発に作り替えられる時期には、曝露の影響を受けやすいと考えられています。成人期だけを調べる研究では、こうした時期の影響を見落とす可能性があります。
実験の濃度の問題も指摘されています。人の体内で測定される農薬の量は、ナノモーラーからピコモーラーの水準が一般的です。一方、多くの細胞実験はそれより高いマイクロモーラーの濃度で行われています。こうした高濃度の実験結果は、日常的な低濃度の曝露ではなく、急性の毒性を反映している場合があります。また、がん患者では体重の減少などにより血中の農薬濃度が見かけ上高くなることがあり、関連と因果を取り違えるおそれも挙げられています。
総説の結論として著者らは、現在の疫学的・実験的な証拠は、一部の農薬曝露と乳がんとの関係について正当な懸念を支持すると述べています。また、ホルモンかく乱などの生物学的にもっともらしい仕組みが示されているとしています。一方で、これらの知見をすべての農薬に一般化したり、特定の単一物質が人で乳がんを引き起こすという確定的な証拠と解釈したりしてはならないとも強調しています。この総説は、農薬と乳がんの関係を、何が実験で示され、何が人でまだ確かめられていないのかを分けて理解する手がかりを示すものといえます。
原著論文の著者・所属:Tasan E(Department of Pharmacy and Health and Nutrition Sciences, University of Calabria, 87036 Arcavacata di Rende, Italy.)、Augimeri G(Department of Pharmacy and Health and Nutrition Sciences, University of Calabria, 87036 Arcavacata di Rende, Italy.)、Bonofiglio D(Department of Pharmacy and Health and Nutrition Sciences, University of Calabria, 87036 Arcavacata di Rende, Italy.; Health Center, University of Calabria, 87036 Arcavacata di Rende, Italy.)、Peluso G(Sperm Bank, Department of Maternal Infant, Annunziata Hospital, 87100 Cosenza, Italy.)、Marsico S(Department of Pharmacy and Health and Nutrition Sciences, University of Calabria, 87036 Arcavacata di Rende, Italy.; Health Center, University of Calabria, 87036 Arcavacata di Rende, Italy.)、Vivacqua A(Department of Pharmacy and Health and Nutrition Sciences, University of Calabria, 87036 Arcavacata di Rende, Italy.; Health Center, University of Calabria, 87036 Arcavacata di Rende, Italy.)、Rizza P(Department of Pharmacy and Health and Nutrition Sciences, University of Calabria, 87036 Arcavacata di Rende, Italy.)、Aquila S(Department of Pharmacy and Health and Nutrition Sciences, University of Calabria, 87036 Arcavacata di Rende, Italy.; Health Center, University of Calabria, 87036 Arcavacata di Rende, Italy.)
※本記事は原著論文をもとに、日本語で要約・説明を加えた研究紹介です。 出典(原著論文):Tasan E, Augimeri G, Bonofiglio D, et al. Pesticide Exposure and Breast Cancer: Molecular Mechanisms, Epidemiological Evidence, and Current Challenges. Journal of xenobiotics 2026-10-09. DOI: 10.3390/jox16060192. 原著ライセンス:CC BY.