この研究は、中国、アメリカの研究機関の研究論文です。
掲載誌:Earth s Future
ライセンス: CC BY 対象: 公開論文 確認元: OpenAlex
何を明らかにしようとした研究か
コメは世界で最も重要な主食のひとつですが、気候変動にともなう洪水の増加は、稲作に依存する地域にとって大きな脅威になります。研究チームは、この「浸水による稲の損失」が将来どう変わるのか、そして人間の側の対策がどこまでそれを和らげられるのかが十分に数値化されていない点に着目しました。
対象となったのは、カンボジア中部のトンレサップ湖の氾濫原です。この湖は雨季になるとメコン川本流から水が逆流して流れ込み、乾季には逆にメコン川へ水を戻すという、独特の季節変動(フラッドパルス)を持っています。論文によれば、湖の面積は乾季の約24万ヘクタールから平均で約108万ヘクタール、極端な年には約175万ヘクタールまで広がります。この水位変動が肥沃な土砂と水分をもたらし、カンボジアの水田面積の約85%を占める雨季作の稲作を支えてきました。一方で、時期を外した浸水や深すぎる浸水は稲を枯らします。著者らは、2011年の大洪水が25万ヘクタール以上の水田に被害を与えた例を挙げています。
そこで研究チームは、(1) 気候変動のもとで浸水が稲の生産にどう影響するか、(2) 上流のダム(貯水池)の運用が浸水と損失をどの程度抑えるか、(3) 作付け日をずらすことで被害をどれだけ減らせるか、という3つの問いを立てました。
どうやって調べたか
著者らは、気候・水文・農家の判断をひとつにつないだ統合的な枠組みを組み立てました。大きく3つの段階から成ります。
第一に、稲の分布の把握です。人工衛星センチネル1号のレーダー画像とセンチネル2号の光学画像を組み合わせ、機械学習(ランダムフォレスト)によって10メートル解像度の水田地図を作成しました。作付け日は、その年の1月からの累積降水量が最初に500ミリに達した日と定義しています。これは、農家が十分に田んぼが湿るのを待ってから田植えをするという現地の慣行を反映させたものです。作付けから収穫までは、この地域で広く栽培されている長期品種を想定して135日としました。
第二に、将来の浸水の予測です。CMIP6と呼ばれる国際的な気候モデル群から5つのモデルを選び、排出量の少ないSSP1‑2.6、中間のSSP2‑4.5、多いSSP5‑8.5という3つのシナリオを用いました。これを流域規模の水文モデル(THREWモデル)に入力し、上流のダムの貯留と放流も明示的に計算したうえで、湖と河川の水の動きを3次元の水理モデル(Delft3D‑Flow)で再現し、日ごとの水位と浸水の継続日数を求めています。モデルの再現性は、観測水位や流量、2011年の大洪水の衛星観測による浸水範囲と照らし合わせて検証されました。
第三に、損失の算定です。稲は生育段階によって浸水への弱さが異なります。研究チームは生育期間を栄養成長期・生殖成長期・登熟期の3段階に分け、既存研究による「浸水の深さと期間から段階ごとの減収率を求める曲線」を当てはめて、金額に換算した損失を推計しました。比較の基準となるのは1980〜2014年(ベースライン期)で、これを2021〜2060年(近未来)と2061〜2100年(遠未来)と比べています。なお、収量と価格、水田の面積は将来も変わらないと仮定しており、ダムの運用ルールも各シナリオを通じて固定されています。
報告された主な結果
まず損失額の推移です。ベースライン期の浸水による稲の損失は年平均でおよそ7,800万米ドルと算出されました。近未来ではすべてのSSPシナリオで平均損失がこれを下回ります。その主な理由として、著者らは浸水する面積そのものが縮小し、水に浸かる水田が減ることを挙げています。ところが遠未来になると損失は近未来より再び増加し、SSP1‑2.6とSSP2‑4.5ではベースラインを下回ったままですが、高排出のSSP5‑8.5ではベースラインをわずかに上回ると報告されています。平均値が下がる期間でも極端な被害は起こりうるとされ、遠未来のSSP5‑8.5では最大で1億6,000万米ドルの損失が見込まれました。
次に、被害の「中身」が変わるという指摘です。将来の損失を左右するのは浸水の範囲や継続期間だけでなく、浸水が稲のどの生育段階と重なるかというタイミングでもあります。ベースライン期には生殖成長期と登熟期、つまり出穂から実が入るころに損失が集中していましたが、将来期には栄養成長期と生殖成長期、すなわちより早い苗の時期と開花期へと被害の中心が移ると報告されています。著者らはこの背景として、洪水の引く時期が早まることと、それにともなって田植えが遅くなることを挙げています。
対策の効果については、貯水池の運用が浸水による損失を大きく減らし、とくに生殖成長期と登熟期で効果が顕著だったと報告されています。作付け日の調整もそれに上乗せする形で効果があり、とりわけ遠未来で有益だとされました。2つの対策を比べると、貯水池の運用のほうがより効果的だという結果です。
この研究が示すこと
この研究は、洪水に依存する稲作地帯において、気候の変化だけを見ていては将来のリスクを読み違えうることを示しています。浸水面積の増減と、浸水が稲の生育段階のどこに当たるかというタイミングは別の問題であり、平均的な被害額が下がる時期であっても極端な損失の可能性は残ります。
また著者らは、流域をまたぐ調整を必要とするダム運用と、地域の農家の判断に委ねられる作付け時期の調整という、性格の異なる2つの適応策を同じ枠組みの上で比較しました。水の管理と農業の意思決定を切り離さずに扱うこの方法は、水と農業が強く結びついた地域で、どの手段にどれだけ期待できるかを検討するための足がかりになります。
著者:Keer Zhang(Department of Hydraulic Engineering & State Key Laboratory of Hydroscience and Engineering Tsinghua University Beijing China)、Khosro Morovati(Department of Hydraulic Engineering & State Key Laboratory of Hydroscience and Engineering Tsinghua University Beijing China)、Anton Urfels(Cornell University College of Agriculture and Life Sciences Ithaca NY USA)、Fuqiang Tian(Department of Hydraulic Engineering & State Key Laboratory of Hydroscience and Engineering Tsinghua University Beijing China)
※本記事は原著論文をもとに、日本語で要約・説明を加えた研究紹介です。 出典(原著論文):Keer Zhang, Khosro Morovati, Anton Urfels, et al. Dam Regulation Moderates Climate‐Induced Rice Yield Loss in the Mekong‐Tonle Sap Lake System. Earth s Future 2026-08-27. DOI: 10.1029/2025ef008053. 原著ライセンス:CC BY.