この研究は、ブラジルの研究機関の研究論文です。

掲載誌:Artefactum

ライセンス: CC BY 対象: 公開論文 確認元: OpenAlex

何を目指した研究か

セレンは、抗酸化や甲状腺ホルモンの代謝などに関わるタンパク質の材料として、人にとって欠かせない微量元素です。ただし、その栄養上の性質は量だけでなく「どのような化学的な形で存在するか」に左右されます。論文によれば、セレノメチオニン(セレンを含むアミノ酸の一種)のような有機のセレンは、亜セレン酸塩などの無機のセレンよりも一般に体内での利用されやすさ(生物学的利用能)が高いとされています。また、食品に含まれるセレン量は土壌の組成によって変わるため、日常的に食べる食品を通じてセレン摂取を底上げする「生物学的強化(バイオフォーティフィケーション)」が提案されてきました。

著者らが着目したのは、発酵という工程そのものが微生物による元素の作り替えの場になりうる、という点です。パン・ビール酵母として知られる Saccharomyces cerevisiae は、硫黄の代謝経路を使って無機のセレンを取り込み、セレンを含むアミノ酸へと変換する能力を持ちます。醸造中にこの働きを利用すれば、アルコール発酵と栄養素の変換を同時に行えることになります。

もっとも、論文は、醸造におけるセレンの変換についてこれまでの知見が小規模な段階にとどまり、パイロット規模(試験的な実生産に近い規模)での発酵の出来ばえ、ビールと酵母それぞれへのセレンの分かれ方、生成するセレンの種類の内訳については証拠が限られていたと述べています。そこで研究チームは、実際の醸造設備を使った規模で、セレン強化クラフトビールの製造が技術的に成り立つかどうかを確かめようとしました。

どのように試したか

研究チームは、ブラジル・バイーア州のサンタクルス州立大学にある実験用醸造所で、麦芽のみを原料とする麦汁(ビールのもとになる糖液)200 Lを仕込み、これを100 Lずつ2つの独立したバッチに分けました。それぞれに、あらかじめ選抜されていた2種類の S. cerevisiae 株(SC52 と SC82)を用いています。これらの株は、エタノール耐性や凝集性、発酵性能といった醸造上望ましい性質にもとづいて選ばれたものです。

セレン源としては亜セレン酸ナトリウムを用い、酵母を植える直前に添加しました。添加量と発酵温度は株ごとに事前の検討で最適化された条件が使われ、SC52 は11 mg/Lで25.0 ℃、SC82 は12 mg/Lで23.5 ℃でした。発酵は168時間行い、その後0 ℃で15日間の熟成を経て、ビールと残った酵母を分離しています。

分析では、発酵中の菌体の増え方、エタノールの生産速度、見かけの収率といった発酵の指標を追跡しました。さらに、セレンの総量は DRC-ICP-MS という質量分析法で、セレンがどの化学種として存在するかは HPLC-ICP-MS(液体クロマトグラフィーで成分を分離してから質量分析につなぐ手法)で調べています。なお著者ら自身が、この実験は繰り返しを設けた醸造試験ではなく2回のパイロット製造であるため、結果は統計的な比較ではなく技術的な実現可能性の評価として読むべきだと明記しています。

報告された主な結果

まず発酵そのものについて、両株ともバッチ発酵に典型的な挙動を示し、最後まで発酵を完了したと報告されています。エタノールの最大容積生産性はどちらの株でも24時間の時点で0.84 g/L/h に達し、見かけのエタノール収率は0.41〜0.42 g/g で安定していました。著者らは、この条件下ではセレンの添加が炭素からエタノールへの変換を目立って損なうことはなかったとしています。

セレンの行方には大きな偏りが見られました。仕上がったビール中の総セレン濃度は、SC52 のビールでおよそ89 µg/L、SC82 のビールでおよそ73 µg/L でした。一方、残った酵母のセレン濃度はこれよりも二桁ほど高く、回収されたセレンのおよそ99%が酵母のバイオマス側に結びついていたと報告されています。つまり、ビールにもセレンは移っているものの、大部分は酵母に蓄えられていたことになります。

化学種の内訳では、ビースと酵母のどちらでもセレノメチオニンが主要な形でした。ビール中では総セレンの約66〜70%、酵母中では約90〜93%を占め、メチルセレノシステインはそれより少量でした。添加した亜セレン酸塩は検出されませんでした。著者らはこれを、無機のセレンが広範に有機の形へ変換された証拠と解釈しています。ただし、定量できた化学種の合計は総セレン量には達しておらず、未同定のセレン含有ペプチドやタンパク質、あるいは抽出の不完全さが関わっている可能性があるとして、化学種のデータは総セレン量や抽出回収率とあわせて読むべきだと注意を促しています。

この研究が示す意味

この研究が描き出したのは、酵母が醸造の場で二つの役割を同時に果たしうるという姿です。アルコール発酵を担いながら、加えられた無機のセレンを栄養上意味のある有機の形へと作り替える。しかも著者らによれば、亜セレン酸塩の添加は醸造設備や基本的な工程の順序を変えずに組み込むことができ、既存の醸造操業との相性がよいとされています。

結果として得られるのは、セレンを含むビールと、セレンが濃縮された残存酵母という二つの産物です。後者は循環型の醸造システムのなかで価値をもちうる副産物になりますが、論文は、食品や飼料として使うには安全性、組成、安定性、規制面の個別評価が必要だと明確に線を引いています。同様に、ビールのセレン濃度についても、それ自体を栄養上の主張の根拠とするのではなく、化学種のデータとあわせて解釈すべきだとしています。

限られた回数のパイロット製造にもとづく報告ではありますが、この研究は、発酵という古くからの食品加工の工程が、微量元素の形を変える技術の舞台にもなりうることを、実生産に近い規模で具体的に示した一例と言えます。

著者:Antônio Fábio Reis Figueiredo、Erik Galvão Paranhos da Silva、Jefferson Rodrigues de Souza(Pontifícia Universidade Católica do Rio de Janeiro Instituição : Universidade Estadual Norte Fluminense Darcy Ribeiro (UENF)

※本記事は原著論文をもとに、日本語で要約・説明を加えた研究紹介です。 出典(原著論文):Antônio Fábio Reis Figueiredo, Erik Galvão Paranhos da Silva, Jefferson Rodrigues de Souza. PILOT-SCALE PRODUCTION OF SELENIUM-ENRICHED CRAFT BEER THROUGH YEAST-MEDIATED BIOCONVERSION: FERMENTATION PERFORMANCE, SELENIUM SPECIATION, AND INDUSTRIAL FEASIBILITY. Artefactum 2026-09-06. DOI: 10.23900/artefactum.v25i8.3910. 原著ライセンス:CC BY.