著者の所属・活動拠点の国は、カナダ、アイルランドです。
掲載誌:International Journal of Environmental Research and Public Health
ライセンス: CC BY 対象: 公開論文 確認元: OpenAlex
南国のビーチで木陰に落ちている青いりんご状の実。見た目は食べられそうでも、これがカリブ海沿岸などに分布するマンチニールの木の実だった場合、命に関わる中毒を起こすことがあります。カナダ・トロント大学の研究者らが、コスタリカ旅行中にこの実を口にした患者の症例を報告し、あわせてこれまでの文献をレビューした論文が、インターナショナル・ジャーナル・オブ・エンバイロメンタル・リサーチ・アンド・パブリック・ヘルスに掲載予定です。マンチニール(Hippomane mancinella)はトウダイグサ科に属し、世界で最も危険な樹木のひとつとされながら、臨床像や治療法に関する文献が乏しいと著者らは指摘しています。
症例:実を2つ食べた旅行者に何が起きたか
報告されたのは、70代のカナダ人女性がビーチの木の下で拾った『りんご』を2つ食べたケースです。摂取から30分以内に、舌の苦味・白色化・灼熱感、唇と口腔咽頭の腫れ、発汗、動悸、下痢が出現しました。現地の診療所で抗ヒスタミン薬と点滴を受けたのち、これがマンチニールの実だと判明します。翌日以降も消化器専門医から抗ヒスタミン薬、プレドニゾン5mg/日、プロトンポンプ阻害薬(PPI)による治療を2度受けましたが、症状は3日目までに一旦改善したものの、旅行が終わる14日目までのあいだ、苦味・口腔のしびれ・唇の腫れ・動悸・下痢が断続的に再燃しました。帰国後もセチリジン(抗ヒスタミン薬)で症状はやや落ち着くものの、完全には収まりません。トロント大学の熱帯医学ユニットで詳しく検査したところ、血液検査、心臓超音波、48時間の心電図モニタリングはいずれも正常でした。転機になったのは、木に触れた衣類とタオルを処分するという対策で、その後症状は消失し、3か月後の追跡調査でも再発はなかったと報告されています。
マンチニールという木の正体と毒性のしくみ
マンチニールの木は、カリブ海沿岸、トバゴ島、中央アメリカ、フロリダ、米領ヴァージン諸島、西アフリカ沿岸の高波線より上の狭い海岸帯に生育し、樹高25m未満で、クラブアップルに似た小さな緑の実をつけます。スペイン人はこの木を『死のりんご(マンサニージャ・デ・ラ・ムエルテ)』と呼び、リトルアンティル諸島の先住民カリナゴの人々は乳白色の樹液(ラテックス)を矢毒に使っていたという歴史があるといいます。樹液には複数の毒性成分が含まれるとみられ、加水分解性タンニンの一種であるヒポマニンAと、フォルボールエステルに似たジテルペンエステル(チグラン・インゲナン系)が単離されています。ジテルペンエステルはプロテインキナーゼC(PKC)を活性化し、炎症性サイトカインの放出や血管障害を引き起こすことで、皮膚の水疱・発赤や粘膜の強い炎症につながると考えられています。かつて1955年の研究で実からフィソスチグミン(コリンエステラーゼ阻害作用を持つアルカロイド)が検出されたとの報告がありましたが、その後の薄層クロマトグラフィーや高分解能質量分析による再検証では検出されず、著者らは当時使われた比色反応の特異性の低さによる偽陽性だったと考察しています。皮膚や眼に樹液・雨水が触れると激しい接触皮膚炎や角結膜炎、実を食べると口腔咽頭の灼熱感や消化器症状が起こり、フランスの中毒情報センターに報告された97件の摂取例では、97%が症状を示し、口腔咽頭痛(68%)、腹痛(42%)、下痢(37%)、口腔咽頭の刺激感(32%)、嘔吐(20%)が多かったとされています。この97件のうち11件は複数個の実を食べており、この群は年齢が高く(平均55.6歳対33.9歳)、症状の数も多い傾向がみられ、実を2個以上食べた高齢者2例で持続する徐脈(不整脈)が報告され、そのうち1例はペースメーカー植込みが必要になったと記録されています。今回の症例の患者も70代で実を2個食べており、この『高リスク群』の特徴と一致すると著者らは述べています。ただし徐脈を来す仕組みは依然として推測の域を出ておらず、フィソスチグミンによる説明は近年の分析で否定的とされ、ジテルペン化合物による直接的な心毒性や、粘膜刺激が引き起こす迷走神経反射などの可能性が挙げられていますが、実験的に検証されたわけではないと明記されています。
『衣類に毒が残る』という仮説と、この報告の限界
この症例で特に注目されているのは、症状が数週間にわたって再燃と改善を繰り返し、木に触れた衣類とタオルを処分した後にようやく収まったという経過です。著者らは、ジテルペンエステルが脂溶性で揮発しにくい性質を持つことから、繊維に残留して手を介した粘膜への再露出を招いた可能性を仮説として提示しています。類似の現象として、ツタウルシ(Toxicodendron属)に含まれるウルシオールが衣類や道具に長期間残留し、接触がなくても皮膚炎を繰り返す例や、トウダイグサ科のEuphorbia lathyris(ケショウダイグサ)を素手で引き抜いた後に目をこすり、直接の接触なしに結膜炎や角膜びらんを起こした例が紹介されています。ただし著者ら自身が明確な限界として述べているとおり、この衣類・タオルは処分されてしまったため実際に毒性成分が検出されたわけではなく、繊維上での残留は今回の患者では検証されていない仮説にとどまります。また、この患者の中毒自体も毒性学的に確定診断されたものではなく、経過は単一症例からの時間的な関連にすぎず、症状の自然な変動やセチリジンの使用が解釈を複雑にしている可能性も指摘されています。著者らは、今後同様の症例があれば、疑わしい衣類を液体クロマトグラフィー・タンデム質量分析でヒポマニンAやジテルペンエステルについて分析する価値があると提言しています。マンチニール中毒には特異的な解毒剤・治療法は存在せず、治療は清潔な水での洗浄や対症療法(抗ヒスタミン薬、ステロイド、PPI、点滴など)にとどまるとされ、眼への露出では洗浄後の速やかな眼科受診が推奨されています。論文はさらに、同じ熱帯地域で旅行者が遭遇しうる食性中毒として、アキー(Blighia sapida、低血糖脳症)、ライチ(Litchi chinensis)、キャッサバ(Manihot esculenta、シアン中毒・コンゾ)、パパイン(Carica papaya由来のアレルゲン)といった植物性の中毒や、シガテラ魚中毒、ヒスタミン(スコンブロイド)中毒、貝毒、テトロドトキシン(フグ毒)といった海洋性の中毒とマンチニール中毒を比較し、後者の多くが代謝異常・シアン中毒・アレルギー・神経毒などの全身性の機序であるのに対し、マンチニールは局所的な刺激・炎症反応が主体である点が異なると位置づけています。
この報告に日本の研究機関や日本食品への言及は含まれていません。マンチニールの木は木にX印などで危険を示す表示がされることがあるものの、統一された標識制度はなく、開発の進んでいない地域では表示がないことも多いとされています。木を伐採すれば毒性リスクは減らせますが、海岸の土壌を安定させ浸食を防ぐ役割も担っているため、著者らは伐採よりも標識設置と旅行者への教育を優先すべきだとしています。
まとめ
この論文は、カリブ海や中央アメリカを訪れる旅行者が知らずにマンチニールの実を口にしたり樹液に触れたりすることで、口腔咽頭の炎症や皮膚炎、まれに徐脈などの循環器症状を来す可能性があることを、1例の症例報告と既存文献のレビューから示したものです。特異的な解毒剤がない現状では、木に近づかない、地面に落ちている見慣れない実を食べない、雨よけに使わない、といった予防が中心になるとされています。衣類への毒性成分の残留という仮説は今回の1例から得られた着想であり、著者ら自身も検証されていない可能性として位置づけている点に注意が必要です。一つの症例報告に基づく知見であり、今後さらなる検証が必要とされています。
原著論文の著者・所属:Amanda Hempel(Temerty Faculty of Medicine, University of Toronto, Toronto, ON M5S 1A8, Canada)、Rahel Zewude(Temerty Faculty of Medicine, University of Toronto, Toronto, ON M5S 1A8, Canada)、Michael Klowak(Institute of Medical Science, University of Toronto, Toronto, ON M5S 3H2, Canada)、Tahyreem Shahid(Temerty Faculty of Medicine, University of Toronto, Toronto, ON M5S 1A8, Canada)、Judith Joshi(Temerty Faculty of Medicine, University of Toronto, Toronto, ON M5S 1A8, Canada)、Zhongtian Shao(School of Medicine, Trinity College Dublin, D02 PN40 Dublin, Ireland)、Andrea K. Boggild(Institute of Medical Science, University of Toronto, Toronto, ON M5S 3H2, Canada)
※本記事は原著論文の翻訳ではなく、研究内容を独自に解説したものです。出典(原著論文):Amanda Hempel, Rahel Zewude, Michael Klowak, et al. Poison Apple-like Fruit Ingestion: A Case Report and Review of Manchineel Fruit Toxicity. インターナショナル・ジャーナル・オブ・エンバイロメンタル・リサーチ・アンド・パブリック・ヘルス (2026). DOI: 10.3390/ijerph23081062. 原著ライセンス: cc-by.