著者の所属・活動拠点の国は、ウクライナです。

掲載誌:PROBLEMS OF SEMANTICS PRAGMATICS AND COGNITIVE LINGUISTICS

ライセンス: CC BY-SA 対象: 公開論文 確認元: OpenAlex

研究の目的

言葉は意思疎通の道具であるだけでなく、ある共同体の文化的な経験を保存し、伝え、形づくる手段でもあります。この研究で著者らは、20世紀末から21世紀初頭のイタリア小説が、登場人物の暮らしを描く言葉を通して「イタリア人らしさ」、つまり文化的アイデンティティをどのように表しているのかを調べました。

著者らは、文化的アイデンティティを、人が特定の民族の文化や言語に属していると自覚することと捉えています。小説の中でそれを表すのが「言語文化コード」です。これは、ある民族が世界をどう理解し、評価しているかを映す意味の組み合わせを指します。たとえば、身体にかかわる「身体コード」、場所にかかわる「空間コード」、物にかかわる「物(アーティファクト)コード」、食にかかわる「食のコード」、信仰や価値観にかかわる「精神コード」などがあります。論文によると、こうしたコード同士の関わり合いに注目して、現代イタリア小説の言語的な目印(マーカー)を体系的に明らかにした分析は、これまで行われていませんでした。

何をどう調べたか

分析の対象は3つの長編小説です。アレッサンドロ・バリッコの『Oceano mare』(1993年)、マルガレート・マッツァンティーニの『Non ti muovere』(2001年)、エレナ・フェッランテの『L'amica geniale』(2011年)を取り上げました。著者らは、これらの作品は文化的アイデンティティを言葉で組み立てるやり方がそれぞれ異なると位置づけています。

方法としては、作品から該当する表現を漏れなく拾い出し、記号論的な分析、言語文化学的な分析、文脈に即した解釈を組み合わせました。注目したのは、主に次の3種類の言葉です。1つ目は、その文化に固有の物や事柄を直接指す「レアリア(文化固有語)」です。2つ目は、他の言語にぴったり対応する語がない「語彙の欠落(ラクナ)」です。3つ目は、これらが文や場面の描写の中で結びつき、ひとまとまりの文化的な意味を担う「言語文化素(リングヴォクルトゥレーマ)」です。言語文化素は1語で成り立つ場合もあれば、句や文、さらには場面全体として現れる場合もあるとされています。

主な結果

著者らは、作品に描かれたイタリア人の日常が、空間・物・食・身体・精神のコードが互いに入り混じることで形づくられていると報告しています。小説の中では、これらのコードの境界ははっきりしていないといいます。

たとえば『L'amica geniale』では、1950年代のナポリの貧しい地区で、大人たちが中庭に麦わら編みの椅子を出して「prendersi il fresco(涼をとる)」場面が分析されています。著者らによれば、この慣用表現は、昼の暑さのあと住民が椅子を外に出して語らう南イタリアの日常の習慣を指します。麦わら編みの椅子という呼び名は、家々の質素な暮らしぶりを感じさせます。また、通りに直接面した一間か二間の住まいを指す「bassi」は、文化固有語であると同時に他言語に訳語のない語でもあり、作中ではナポリの貧しさと、私生活が共同体の目の前で営まれる暮らしの象徴になっていると論じられています。

『Non ti muovere』では、石畳(selciato)や、黒い服の女性たちが手にするロザリオ(rosario)が取り上げられています。ロザリオは単なる物ではなく、カトリックの祈りの伝統を表す語でもあります。著者らは、この場面が共同体の深い信仰心と家父長的な暮らしを表していると解釈しています。食の表現は、とりわけ強くアイデンティティを示すものとされました。フェッランテ作品で朝から何時間も煮込まれるナポリ風ラグー、マッツァンティーニ作品で農民が土で汚れた手のまま食べるニンニクをこすりつけたパンとトマト、バリッコ作品の熟成チーズと自家製の赤ワインが分析されています。これらの例は、家族の結びつき、貧しい農民の暮らし、食卓の伝統といった意味を担っていると報告されています。

さらに、身ぶりを表す表現と「Mamma mia」「per carità」といった間投詞が組み合わさることで、感情を豊かに表すイタリア的なコミュニケーションのあり方が再現されていることも示されました。マッツァンティーニ作品には、頭を抱え、声も立てずに身をよじる場面があります。著者らはこれを、同じ表現力が深い絶望の中で、沈黙のまま激しい身ぶりという逆の形をとった例として取り上げています。

研究が示すこと

著者らは、分析した小説の中で、文化固有語や訳語のない語が慣用表現と結びつき、さらに日々の習慣、料理の慣わし、登場人物の会話の場面へと広がっていくことを示しました。こうして言葉が、イタリア人に特有の暮らしのあり方というひとつの文化的な意味を担っていると結論づけています。この研究は、小説の何気ない日常描写の一語一語が、文化を伝える重要な手がかりになりうることを具体的な例で示しています。

原著論文の著者・所属:Nadiia Lysenko(Kyiv National Linguistic University, Kyiv, Ukraine)、Roksolana Kravchuk(Kyiv National Linguistic University, Kyiv, Ukraine)

※本記事は原著論文をもとに、日本語で要約・説明を加えた研究紹介です。 出典(原著論文):Nadiia Lysenko, Roksolana Kravchuk LINGUISTIC MARKERS OF CULTURAL IDENTITY IN CONTEMPORARY ITALIAN LITERARY PROSE (BASED ON THE NOVELS BY A. BARICCO, M. MAZZANTINI, AND E. FERRANTE). PROBLEMS OF SEMANTICS PRAGMATICS AND COGNITIVE LINGUISTICS 2026-09-02. DOI: 10.17721/2663-6530.2026.50.163-171. 原著ライセンス:CC BY-SA 4.0.

本紹介記事の文章(題名・見出しを含む)は、CC BY-SA 4.0で提供します。原著論文をもとにNutriMap Japanが日本語で要約・説明を加えています。対象は本紹介記事の文章に限り、ヒーロー画像・サイトのロゴ・画面デザイン・他の記事・データベース全体は含みません。