この研究は、イギリスの研究機関の研究論文です。
掲載誌:University of Vienna
ライセンス: CC BY 対象: 公開論文 確認元: OpenAlex
研究の目的
この研究は、1945年以降の台湾で大豆をめぐる科学と政策がどのように展開したのかを、歴史学の視点から明らかにしようとするものです。台湾は大豆の消費量が多い地域ではなく、耕地面積も限られていました。それにもかかわらず、中華民国(ROC)政府が大豆の生産と研究に力を入れたのはなぜか。著者は、この一見不思議に見える選択を、日本統治期(1895〜1945年)に築かれた農業インフラの遺産と、冷戦期の国際政治という二つの文脈のなかに置いて読み解きます。
論文はまた、世界の食料システムと政治的覇権の結びつきを時期区分でとらえる「食料レジーム論」の議論を広げることも目的としています。従来この分野では、ラテンアメリカのような大規模な単一栽培(モノカルチャー)の事例や、アメリカの覇権を中心とする説明が目立ってきました。著者は、台湾が日本・アメリカ・中国の影響が交錯する位置にあったことに注目し、小規模農家による労働集約的でありながら農薬・化学肥料への依存度が高い大豆生産という、あまり論じられてこなかった事例を提示しています。
何をどのように調べたか
著者が用いたのは、台湾の農業関連機関が残した記録と、ロックフェラー・アーカイブ・センターの資料です。具体的には、中米合作農村復興委員会(JCRR)などの行政文書、各地の農業改良場が関わった試験の記録、当時の研究者が発表した論文や品種報告、さらに社会調査の成果などが検討されています。これらを、科学史の手法と食料レジーム論を組み合わせて読み解くという進め方です。
鍵となる概念が「多期作(多毛作)」です。これは同じ畑で1年のうちに複数の作物を育てる方法で、同時に育てる混作と、順番に育てる輪作の両方を含みます。台湾の環境は稲作に最も適していると認識されていましたが、政府関係者は米と豆類を組み合わせる多期作によって土地の生産性をさらに高められると考えました。論文は、この技術がどのような制度の下で広められ、現場でどう受けとめられたのかを追っています。
論文が報告している主な内容
著者によれば、戦後まずアメリカの援助を通じて大豆の位置づけ自体が変わりました。植民地期には大豆粕(豆かす)が主に肥料として輸入されていましたが、戦後は化学肥料が肥料の役割を担うようになり、大豆粕は家畜の飼料として輸入される品目へと転換しました。論文はこの変化を、余剰農産物を処理したいアメリカ側の思惑と、養豚の増加が経済的・栄養的に有益だと考えたJCRR側の判断が重なった結果として説明しています。
国内生産の拡大も進められました。論文が挙げる数字では、大豆の作付面積は1953年の28,225ヘクタールから1958年の43,629ヘクタールへと約5割増え、生産量は倍以上になって1958年に37,043トンに達しました。同じ年の輸入量は87,683トンで、国産の豆は主に豆腐・醤油・豆乳の材料に、輸入された豆は主に製油に回されていたと報告されています。品種改良も進み、研究者らはアメリカから導入した系統を交配して、湿潤な熱帯で問題となるさび病に強い「台農3号」を1960年代末までに育成しました。
多期作を支えたのは技術だけではありませんでした。著者は、日本統治期に整備された地方行政と監視・動員の仕組みが、戦後の農業普及の土台になったと論じます。加えて1949〜1953年の農地改革で小作人が自作農となり、農会や水利組合の運営も再編されました。生産量は伸び、1967年には作付面積52,300ヘクタール、生産量75,200トンという最高水準に達し、平均収量は1ヘクタールあたり1.4トンで、植民地期の最良の成績の倍以上だったとされます。1931〜35年に1ヘクタールあたり220人日だった労働投入が1956〜60年には305人日になったという統計も示されています。
一方で論文は、現場の実情が政策の想定より複雑だったことも報告しています。1960年代の社会調査によれば、自作農になった人々の暮らしは必ずしも改善せず、生産性向上で得た収入の多くは種子・農具・農業資材・子どもの教育などの費用に充てられました。都市への季節的な移動によって農村の労働力は徐々に減り、農会は若い世代が農業を苦役と感じて嫌う傾向をたびたび報告していたといいます。著者は、多期作という骨の折れる仕事が受け入れられたのは技術的な効率のためというより、自分たちが働くことで子の世代が同じ苦労をしなくてよいようにという「一時的な犠牲」の感覚によるところが大きかったのではないかと述べています。
転機は貿易政策でした。1964年に製油工場が政府の保管する大豆を盗み、鉄道当局に賄賂を渡していた事件が明らかになり、輸入規制への批判が高まります。アメリカからの保護撤廃圧力も加わり、政府は1966年に大豆の輸入規制を撤廃しました。1970年代には農村の労働力減少に対応して機械化・資本集約化が目指されますが、農地改革が生み出した小規模家族経営がかえって農地の拡大と機械化を難しくしたと論文は指摘します。農家は果物・野菜・花などの単価の高い作物へ移り、米以外の穀物、とくに輸入圧力を受けた小麦・トウモロコシ・大豆の生産は急落しました。1979年の大豆生産は約3万トンで、1950年代末の水準に戻っています。
国内生産が縮むなかで台湾の大豆研究は国外へ向かいました。1971年に台南に設立されたアジア蔬菜研究開発センター(AVRDC)は、穀物で進められた「緑の革命」を野菜にも広げることを目指した国際機関で、大豆もその対象作物のひとつでした。しかし同じ1971年に国連の代表権が中華民国から中華人民共和国へ移り、その後多くの加盟国が台湾と断交して寄付も減ります。センターは最大の資金提供者であるROC政府と微妙な距離を保ちながら、国際稲研究所(IRRI)などとの連携で国際的な存在感を確保しようとしたと論文は述べます。その成果の一例として、インドネシアの研究者がさび病に強い在来品種とAVRDC由来の多収系統を交配して育成した「Wilis」が挙げられ、1980年代に普及してインドネシアの大豆作付面積の3割近く、約35万ヘクタールを占めたと報告されています。
この研究が示す意味
この論文が描き出すのは、一つの作物の科学が、土地の条件だけでなく植民地から受け継いだ制度、政権の正統性への不安、援助と貿易の力関係によって形づくられていく過程です。台湾の大豆研究は、アメリカ主導の「緑の革命」の物語と重なりつつ、そこからはみ出す道筋も歩みました。大規模な単一栽培ではないけれども化学資材に大きく依存する研究計画が冷戦期の東南アジアに立ち上がったという指摘は、緑の革命や食料レジームをアメリカの覇権だけで説明することの限界を示しています。
同時にこの研究は、政策の数字と農村の暮らしのあいだにずれがあったことを丁寧に記録しています。生産量や収量が伸びたことは統計として確かでも、それを支えた人々が何を背負っていたのかは別の話です。食料をめぐる技術と制度の歴史を、国際政治と現場の双方から見る必要があることを、この事例は具体的に教えてくれます。
著者:Leo Chu(Laureate Centre for History and Population, University of New South Wales, Kensington)
※本記事は原著論文をもとに、日本語で要約・説明を加えた研究紹介です。 出典(原著論文):Leo Chu. Multiple Soy. University of Vienna 2026-09-22. DOI: 10.25365/rhy-2025-8. 原著ライセンス:CC BY.