著者の所属・活動拠点の国は、ロシアです。
掲載誌:Hygiene and Sanitation
ライセンス: CC BY 対象: 公開論文 確認元: OpenAlex
スーパーで売られている食品には、残留農薬の基準値が細かく定められています。その代表格の一つが、かつて世界中で使われた有機塩素系殺虫剤DDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)です。ロシアの技術規則では「DDTとその代謝物」という項目がすべての食品で申告義務の対象になっていますが、実はこの表現自体があいまいで、分析や基準適合の判断を難しくしているという問題を、ロシアのFF・エリスマン記念連邦衛生科学センターの研究グループが指摘しています。この記事では、その内容を紹介します。
DDTは単一の物質ではありません。構造上、p,p'-DDTとo,p'-DDTという異性体があり、さらに環境中や生物の体内で分解されるとDDD、DDE といった代謝物(分解産物)に変化します。市販されていた「工業用DDT」の典型的な組成として論文が挙げる例では、p,p'-DDTが77.1%、o,p'-DDTが14.9%、p,p'-DDDが0.3%、o,p'-DDDが0.1%、p,p'-DDEが4%、o,p'-DDEが0.1%、その他の不純物が3.5%とされており、「DDT」と一括りに呼ばれるものの中に複数の化学形態が混在していることがわかります。
基準値と分析結果の間にあるズレ
研究グループは、ロシア・ユーラシア経済連合(EAEU)の技術規則が定める「DDTとその代謝物」という表現について、どの物質をどう合算して基準値と比較すべきかが明確でないと指摘しています。実際、油脂類の分析法を定めた規格(ГОСТ 32122–2013)はp,p'-DDTとその代謝物p,p'-DDE・p,p'-DDDのみを対象とする一方、食肉製品の規格(ГОСТ 32308–2013)ではo,p'-DDT・p,p'-DDTに加えo,p'体・p,p'体のDDD・DDEまで含む6種類を、乳製品の規格(ГОСТ ISO 3890-1–2013)でも同様に異性体を含む形で扱っており、対象とする物質の範囲が製品カテゴリーごとに食い違っているといいます。著者らは、動物性食品の分析法は異性体・代謝物を幅広く含める傾向があり、植物性食品の分析法は環境中で最も安定なp,p'-DDT系に絞る傾向があるという違いも整理しています。
国際的な扱いも比較されています。国連食糧農業機関・世界保健機関のコーデックス委員会は、DDTを「p,p'-DDT、o,p'-DDT、p,p'-DDE、p,p'-DDDの合計」と定義しており、日本と中国もこれと同じ定義を採用していると論文は述べています。欧州連合とオーストラリアもほぼ同様の合算方式です。これに対して米国食品医薬品局(FDA)は、DDT・DDE・DDDを「回避不能な残留農薬」として扱いつつ、脂肪の少ない食品では0.02ppm未満、魚・卵・穀物では0.2ppm未満の成分は合計計算から除外するという運用をしています。論文はニンジンを例に、p,p'-DDTが0.6mg/kg、p,p'-DDEが2.8mg/kgなど複数の異性体・代謝物が検出されたケースを示し、除外ルールを適用すると個々の物質はいずれも基準値(3mg/kg)を超えないのに、合計すると3.4mg/kgとなり基準を超えてしまうという、解釈次第で判定が変わりうる状況を具体的に説明しています。
なぜ今も残留が問題になるのか
DDTは1930年代に殺虫効果が見出され、1943年に工業生産が始まり、1960年代半ばには世界の年間生産量が8万2000トンを超えるピークを迎えたと紹介されています。その後、生態系への毒性や生物濃縮、分解の遅さが明らかになり、2001年のストックホルム条約で農業用途が禁止されました。同条約は2019年時点でロシアを含む183か国が批准していますが、マラリアなど昆虫が媒介する感染症対策に限り使用が認められており、公式な生産・輸出国はインドとされ、中国やベトナムでも生産されている可能性があるといいます。屋内残留噴霧(IRS)や殺虫剤処理蚊帳(ITN)といった対策技術に関連する特許出願は過去20年で400件以上にのぼるとも述べられています。また、殺ダニ剤ジコホルの製造工程からもDDTが環境中に排出される経路があり、中国の閉鎖系工場を対象とした調査では、室内空気や排水、製品中にDDTが検出され、上海近郊の太湖周辺の大気中DDT濃度は近くのジコホル工場の操業と関連づけられたことも紹介されています。こうした残留の性質から、DDTが市場から姿を消して30年以上経っても、有機栽培を含む食品からその残留が検出される例が報告されているとされています。
この研究の位置づけと限界
この論文は新しい分析データを実験的に取得した研究ではなく、ロシア・ユーラシア経済連合の規則、コーデックス委員会、欧州連合、FDA、日本・オーストラリア・中国の公表資料をもとに、DDTの基準表示と分析手法の食い違いを整理した政策・方法論的な考察です。著者らは、DDTが「回避不能な残留農薬」に分類されていること、食品中でp,p'-DDTが主要成分であることなどを踏まえ、「DDTとその代謝物」という基準項目をp,p'-DDT・p,p'-DDD・p,p'-DDEの3物質(単独またはその合計)として明確化することを一つの案として提示していますが、これは著者らの提案であり、実際に規則が改定されたと述べているわけではありません。論文自体も、ロシアおよびユーラシア経済連合の専門家コミュニティが今後この問題の解決策を見出すことを期待する、という言葉で締めくくられています。
原著論文の著者・所属:Valerii N. Rakitskii(Federal Scientific Center of Hygiene named after F.F. Erisman)、Nataliya I. Dobreva(Federal Scientific Center of Hygiene named after F.F. Erisman)、Nataliya E. Fedorova(Federal Scientific Center of Hygiene named after F.F. Erisman)、Alena V. Suslova(Federal Scientific Center of Hygiene named after F.F. Erisman)
※本記事は原著論文の翻訳ではなく、研究内容を独自に解説したものです。出典(原著論文):Valerii N. Rakitskii, Nataliya I. Dobreva, Nataliya E. Fedorova, et al. Standardization and presentation of analytical results for the detection of organochlorine pesticides susceptible to isomerism and metabolism (using 4,4’-dichlorodiphenyltrichloroethane – DDT as an example). ハイジーン・アンド・サニテーション (2026). DOI: 10.47470/0016-9900-2026-105-7-708-712. 原著ライセンス: cc-by.