著者の所属・活動拠点の国は、中国です。

掲載誌:Frontiers in Sustainable Food Systems

ライセンス: CC BY 対象: 公開論文 確認元: OpenAlex

研究の目的:近代化がもたらした「効率」と「もろさ」を問う

農業の近代化は、品種改良や設備投資によって収量を高め、供給を安定させると考えられがちです。しかし著者らは、植民地支配や、買い手が一社に限られる独占的な取引、輸出市場への依存といった不平等な制度のもとでは、近代化が別の結果も伴いうると指摘します。資源の集中、単一作物の大規模栽培(モノカルチャー)、市場の支配によって、生産者の自主性が弱まり、社会的・生態的な脆弱性が高まるという結果です。

研究チームは、日本統治期の台湾の砂糖産業をこの問題を考える典型的な事例として取り上げました。先行研究は、製糖会社の土地政策、原料採取区域制度、小作をめぐる問題、農民の抵抗などを個別に論じてきました。たとえば1925年に彰化で起きた二林事件は、サトウキビ農家がキビの価格や買い付け条件の改善を求めて組織した大規模な抗議で、農家と製糖会社の不平等な関係を示す出来事とされています。一方で、品種改良から工場加工、制度による統制、市場への依存、社会的影響までを一続きの仕組みとして分析した研究は少ないと著者らは述べます。

そこで本研究は、原料を生産してから加工し、流通・輸出に至る一連の過程を「バリューチェーン(価値連鎖)」として捉え、植民地当局が品種改良によって砂糖産業の原料基盤をどう作り替えたか、近代的な製糖工場や灌漑事業、栽培方法の標準化がサトウキビ生産をどのように工場向けの原料供給網へ変えたか、といった問いを検討しました。

何を調べたか:多様な歴史資料による段階的な分析

研究チームは、主に5種類の資料を用いました。作付面積、単位面積当たり収量、砂糖の回収率、総生産量、近代製糖工場の拡大、輸出量などを示す公的・準公的な統計、地域ごとの栽培や工場の配置、灌漑事業を復元するための地方志や地域調査、1902年の糖業奨励規則や1905年の製糖場取締規則などの法令・制度文書、品種導入や交配育種、施肥、灌漑、病害虫防除に関する農業技術資料、そして市場の状況やキビ価格をめぐる争い、米と砂糖の競合、農民運動を補うための新聞・調査報告・既存研究です。

植民地期の統計は対象範囲が資料ごとに異なり、毎年連続しているわけでもありません。そのため著者らは連続的な数量モデルや厳密な因果推論は行わず、主要な年のデータ、時期ごとの比較、制度文書の分析を組み合わせて長期的な構造の変化を読み取る方法をとりました。統治期を、統治前・初期、ハワイ品種の導入と近代工場建設の開始期、ジャワ細茎種の普及期、ジャワ大茎種と原料採取区域制度の強化期、戦時統制期といった段階に大まかに分け、品種の交代、工場の拡大、灌漑整備、制度的統治の変化をたどっています。

農家の自主性や市場依存、回復力(レジリエンス)のリスクといった概念は単一の指標では測りにくいため、法令による制約、販売経路、契約栽培の関係、価格をめぐる争い、病害虫、社会的抵抗など複数の証拠から総合的に評価したと説明されています。

主な結果:品種・工場・制度・市場が一体となった仕組み

品種改良について、論文は在来品種から外来品種への交代を詳しく報告しています。統治前の台湾では竹蔗や紅蔗などの在来品種が中心で、収量や糖分、病気や風への強さに限界がありました。統治後はまずハワイからローズバンブー種などが導入され、糖の回収率が9%を超えることから急速に普及し、1907〜1908年には全作付面積の53.3%を占めました。しかし病気に弱く風にも弱かったため、1911〜1914年の相次ぐ台風の後に優位は大きく後退しました。1916年頃にはジャワから細茎種が導入され、なかでもPOJ161は1924〜1925年に作付面積の86.3%に達し、砂糖の産出はローズバンブー種より約3分の1多かったと報告されています。ところが後にモザイク病に弱いことが明らかになりました。続く大茎種POJ2725は、作付面積に占める割合が1924〜1925年の0.3%から1933〜1934年には80.7%へと拡大しましたが、やがて害虫や病害の被害を受け、別の品種への切り替えが進められました。

加工の面では、近代的な機械製糖工場の拡大により、各地に分散した小規模な伝統的製糖から、資本集約的で標準化された工場生産へと移行しました。著者らは、工場が単に加工能力を高めた場所ではなく、品種や収穫時期、輸送の範囲、原料の品質基準を決める中心的な拠点になったと論じています。嘉南地域の大規模灌漑と輪作に基づく給水制度も、水供給の改善にとどまらず、水利権や輪作の取り決め、製糖工場の原料需要を結びつけて、農業生産を自然条件への依存から工学的・制度的な管理へと移す仕組みだったと位置づけられています。

制度面では、1902年の規則が苗や肥料、開墾、灌漑などへの奨励金や貸付、土地の優遇措置を定め、資本・土地・労働を砂糖産業へ継続的に向かわせたと論文は述べます。1905年の規則では「原料採取区域」が設けられ、区域内で収穫されたサトウキビは許可なく区域外へ運び出せず、製糖以外の用途にも使えなくなり、農家は指定された工場や会社に売ることを求められました。これにより工場への原料供給は安定した一方、農家が売り先を選ぶ自由や価格を交渉する力は弱まったと著者らは指摘しています。

市場の面では、港湾整備や日本による関税免除のもとで日本への輸出が急増しました。総生産量に占める日本向け輸出の割合は1897年の49%から、1905年と1907〜1909年には99%に達したと報告されています。1910年以降は中国大陸などほかの市場も開拓されましたが、日本市場の優位は変わりませんでした。台湾は主に原料と粗糖を生産し、精製は日本で行われ、精製糖がさらに他の市場へ販売されるという構造の中で、付加価値の高い部分は日本の資本と市場が握っていたと論文は述べています。

研究が示す意味:産出の増加は持続可能性と同じではない

著者らは、日本統治期の台湾における砂糖産業の近代化が、農業技術の進歩によって自然に進んだ成長ではなく、国家権力、製糖資本、土木事業、制度的統制が一体となって形成した植民地型のバリューチェーンだったと結論づけています。そこには「効率の向上」と「脆弱性の蓄積」が同時に進むという構造的な特徴がありました。

脆弱性の源は複数あったとされます。少数の優良品種への依存は「高収量品種の普及、病害虫の被害、新品種への交代」という繰り返しを生み、作物の多様性を下げて病害虫の拡大や原料供給の途絶のリスクを高めました。生産は中南部の中心産地と大規模灌漑に、販売は日本の需要に、制度は原料採取区域と単一の買い手による統制に依存していました。こうした仕組みは一定期間、高い生産量と輸出を実現したものの、回復力の基盤は安定していなかったと著者らは評価しています。また、産地や工場、交通網の配置などは1945年以降の台湾の農業や地域経済にも痕跡を残したと述べています。

この事例から論文が導くのは、農業の近代化やサプライチェーンの統合を、生産量や加工能力、輸出規模だけで評価することはできないという視点です。著者らは、誰がバリューチェーンを支配しているかに加えて、リスクがどう分配され、利益がどこへ流れ、生産者が本当の選択肢と交渉力を持っているかに目を向ける必要があると指摘しています。

原著論文の著者・所属:Peixiang Yan(School of Foreign Languages, Guangdong Pharmaceutical University)、Huiwen Cai(School of Marxism, Guangdong Polytechnic Normal University)、Haoran Nie(School of Marxism, Guangdong Polytechnic Normal University)、Jinming Chen(School of Marxism, Guangdong Polytechnic Normal University)

※本記事は原著論文をもとに、日本語で要約・説明を加えた研究紹介です。 出典(原著論文):Peixiang Yan, Huiwen Cai, Haoran Nie, et al. Formation of the colonial sugar value chain in Taiwan, China under Japanese colonial rule: sustainability–resilience trade-offs in an agrifood system. Frontiers in Sustainable Food Systems 2026-09-03. DOI: 10.3389/fsufs.2026.1879967. 原著ライセンス:CC BY.