インドネシア・スマトラ島にあるトバ湖は、火山湖の絶景とバタック族の伝統文化で知られる観光地です。観光客が増えれば、宿泊施設や交通だけでなく、街に並ぶ飲食店の顔ぶれも変わっていきます。今回紹介する研究は、トバ湖畔のパングルラン地区で、レストランの看板や幕といった「食にまつわる文字情報」を手がかりに、この地域の食文化がどのように変化しているのかを調べたものです。研究を行ったのは、ブラウィジャヤ大学文化学部言語文学科のサヒルディン氏とエスター・リスマ・プルバ氏です。

着目したのは「言語景観」と呼ばれる研究手法です。これは、街中の看板や案内表示に使われる言語や文字、デザインを観察することで、その土地の社会や文化のありようを読み解こうとするアプローチです。これまでの言語景観研究の多くは、複数の言語がどう使い分けられているかという多言語コミュニケーションに関心を向けてきましたが、観光地における「ハラール(イスラム教の戒律に適合した食品)」と「非ハラール」という食のアイデンティティにはあまり焦点が当てられてこなかった、と著者らは指摘しています。

看板の写真から何を調べたのか

研究チームは、パングルラン地区のレストランの看板、幕、その他の飲食関連の表示を写真として記録し、質的な言語景観の手法で分析しました。単に文字を読み取るだけでなく、「ゲオセミオティクス」と呼ばれる視点――看板が置かれた場所や周囲の環境との関係の中で意味を読み解く見方――と、批判的な視点を組み合わせて検討しています。分析の観点として、看板に使われている言語の選び方、料理としてのアイデンティティ、そして宗教的な目印(ハラール表示など)の三つが設定されました。

バタック料理とハラール料理が同じ町に並ぶ

調査の結果、まず目立ったのは、豚肉料理などを含む伝統的なバタックの非ハラール料理が、今も強く可視化されているという点でした。これは地域固有の食文化がしっかりと根づいていることを示すものだと著者らは述べています。一方で、ハラール表示を掲げる店や、パダン料理、中華料理、ジャワ料理など、他地域・他文化由来の飲食店の存在も増えており、これはムスリム(イスラム教徒)の観光客のニーズに応えようとする適応の動きであり、食の多様化が進んでいることの表れだと論じられています。

さらに興味深い発見として、一部のバタック料理店では、伝統的なバタック料理をハラール認証つきで提供しているケースが確認されました。著者らは、この事実が「バタックの料理としてのアイデンティティ」と「ハラールという食の戒律」が必ずしも対立するものではないことを示していると考察しています。つまり、地域の伝統を保ちながらイスラムの食の規範にも対応する、という両立の形が実際に生まれているというわけです。研究チームは、こうしたレストランの看板が単なる商業的な宣伝にとどまらず、地域のアイデンティティや観光地としての変容を映し出す目印としても機能していると位置づけています。

この研究が示す課題と読むうえでの注意

一方で著者らは、ハラール表示があっても、一部のムスリム観光客は食材の出所や調理方法について依然として慎重な姿勢を示していることを指摘しています。この点から、より明確なハラール認証の仕組みや、行政が主導する形での飲食店エリアのゾーニング(区分け)が必要になる可能性があると論じられています。

この研究は、パングルラン地区という特定の観光地の看板や表示を対象にした質的な調査であり、観察された内容や解釈は調査対象地域と時期に基づくものです。ハラール表示の実際の運用実態や、観光客側の意識まで詳細に検証したものではなく、あくまで一つの地域研究として位置づけて読む必要があります。

トバ湖のような観光地における食文化の変化は、日本の観光地にも通じるところがあるかもしれません。国内でも外国人観光客の増加に伴い、宗教上の食の制約に配慮した表示や、地域の伝統料理との両立をどう図るかが各地で課題となっており、看板や表示という身近な情報から地域の食文化の変化を読み解くという今回の視点は、参考になる部分があるといえるでしょう。

まとめ

この研究は、トバ湖畔のパングルラン地区における飲食店の看板を手がかりに、バタックの伝統的な非ハラール料理が根強く残る一方で、ハラール料理や多様な地域料理が増えていること、さらに伝統料理とハラール認証が両立し得ることを報告しています。ただし、これは一つの地域を対象にした研究であり、結論が広く確定したわけではない点には留意が必要です。

※本記事は原著論文の翻訳ではなく、研究内容を独自に解説したものです。参考文献:Sahiruddin, Esther Risma Purba. Halal and non-halal culinary identity in Pangururan’s linguistic landscape: sustainable tourism in Lake Toba. コージェント・アーツ・アンド・ヒューマニティーズ (2026). DOI: 10.1080/23311983.2026.2705102. 原著ライセンス: cc-by.